昭和45年01月26日 朝の御理解
(途中から)
御理解が入ってないそうです、そのテープに。今日の御理解はあなた、それからというてその通りにお話が出来る様な内容のお話じゃありませんでしたしね、私が頂いておって、大体今日の御理解からおぼろげながらでも、はあそんなもんかなあと分かって頂けば、まあいいと言う様に、御理解中にも申しておりましたようにですね、そういう意味の御理解でした。
というのはですね、教祖様がですね、人間の真実の幸せとはという謎に対するですね、そのう解明をというか、それに対する答えを出して、心まで出しておいでられるんですね。謎々っていうのは。あのうそれでしょう、何々とかけてと答えが出ると、その心はと言う様にですね、ところがその教祖様ご自身が自分が身をもってそれを実証しておられた、いかれてです。
金光大神のは、所謂家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃという、所謂その御理解100節ですね、その御理解100節の、いわゆる子孫繁盛の道を教えるのじゃと教えておられるその道そのものがですね、例えばこの教典なのですよ、ところがその教典そのものが私共が頂ちゃあもう実に深い、謎になっておるわけです現在現代では、ね。ですからそのう、その謎を合楽では解明しておる日々。しかもそれに心まで出していきよる。
だから私達が是を実証して行くと言う事ですね。成程答えは出た心も出たのですから、それをなら実際形の上に、おかげというものに現していこうと、又行かなければならんとまぁ合楽のまぁ是使命であると言う様に、今まで例えばひとつの御教えから、この様な深い意味があったのかと言う様な答えが出ておるでしょう、ね。だからそれは何故そういうおかげを受けられるかという真理とのつながりというものをです、また心を出していっておるわけです、ね。
そして今日第一に立教神伝の、ところを後先を読ませて頂いての御理解でしたがね、「この幣きり境に肥灰さしとめるからそのぶんに承知してくれ」とこう。教祖様にはこのようなふうに天地の親神様は、所謂神頼みというかね、うんいうふうにまぁ話し掛けてはおられます。だからそのそのう是はね、教祖様ご自身じゃなくて、私達の上にも矢張りこのそう言う様な場合があると言う事ですね。
今の松栄会の方達が、会則をつくる時にご神意を頂いた様に、そのう松栄会の会員である以上、例えば私事自分の事と神様事とを二つ並べた場合に、どの様な場合であってもその神様事の方へ、馳せ参じれれる言わば勇気のある人でなからなければ、松栄会に入られんと言うわけ。で、その例えば時です、神様が「肥灰さしとめるから」と仰ったら、はいという気にならにゃいかんわけですというわけですね。
それを何ちゅうですかあのうパラシュートを抱いて飛行機から飛び降りる様な心というふうに頂いたんですねそこん所を。そしてそれはならどう言う事かと言うとね、絶対開くというそのもうそれがある訳なんです。パラシュートを抱いて飛び降りると言う事はね、例えば「肥灰さしとめるからそのぶんに承知してくれ」百姓に百姓を辞めろと言ったら後はどうなるかともう暗澹たる、そのものがそこに流れてる訳ですよ雰囲気が。
けれども次にはですね、所謂家内と子供、所謂にそれを言うておられますもんね。「子供連れてぼとぼと百姓しおってくれ」と言うておられる。同時にならその半ばにですよね、ね、「家内も後家になったと思うてくれ、後家よりもまし物言われ相談もなり、子供連れてぼとぼと農業しおってくれ」というふうに言うておられる。そうしてからどうかと言うと、段々もう百姓もせんでよい位におかげを受けて、奥様は教祖様の身の回りを御奉仕なさればよいと言う様に段々おかげを受けておられると言う事ですよね。
私今朝からお知らせ頂いたのはね、あのうお道の信心ではね「丸坊主になれと言う様な厳しい事はない」というんです。丸坊主になれっていうのじゃない、ね。言うなら有髪の信心だと言う訳なんです。けれどもそのその間にはね、絶えずすき梳き流しておけ、絶えず綺麗に洗っておけと。金光様のご信心は、だから本心の玉を磨くものとか、日々の改まりが大事とかと、言う事を非常に強調しておく訳なんですねそれ毎日。
それけんちてんなら研いておけとか、改まれとかと言う事は酒も飲んじゃならんぞ、女子も一生つけちゃならんぞと、言った様な難しい事じゃないでしょうが。ただ研いておけ改めて改めておけと言う事なんです、ね。そしてなら神様はどう言う事の為にそう言うておられるかと言うと、それを自分の思うままに自由自在に神様の願いがここに成就すると言う様にです、自分の思うままに結い上げてやりたいばっかりなんです。
所謂子孫繁盛の道を教えるのじゃと仰るのは、その間の事なんです。改めておけ研いておけと、綺麗にすき流しておけというのは、子孫繁盛の道をそれ前に作っておって下さる、同時に修行を求められる。そしてその、修行のところがですたい、いつでも潔うはいと、それこそ金の馬前はせ参じれれるというか、神様の仰せに背かんで済む様な、そのう度胸を造らしておって下さる。
それが修行しようという中で出来るこっちゃあない、さあ飛び降りれちゅうたっちゃ、とにかく後ひざりしようごとある。けれども実際は絶対に開くと言う事です。日頃様々な問題で確認させておられたり、又はそれを確証付けておられると。そう言う様な大体御理解だったんです。それをやっぱりたっぷり35分くらい、時間をかけてのお話でしたけれどね、とにかくそのそれに引用された御理解が御理解100節とですね、何節じゃったかしら、うん御理解64節でした。
「この方は参って尋ねるところがなかった」という、「氏子がおかげを受けて遠路のところを参ってくるが信心して徳を受けて身しのぎをするようになれ」と仰る。だから教祖ご自身として、もうそのう実際は、別に本を読まれた訳でもないから、神様からお知らせを頂かれるのを、まぁある場合は手探りに、ある場合にはそれをそのまま、そのままそのものずばりに身をもって行じられて、言わばそのひとつひとつその謎を解明していかれたり、そしてその心までも出しておいでられた。
それを天地の道理と教祖は仰っておられる、ね。同時に結論するとどう言う事になる、教祖様が沢山のお知らせを頂かれて、身を持って行じられておかげを受けられて、そして最後に教祖様は是は自信を持ってかと言っておられる事、絶対のものとして行っておられる事が、あの天地書付なんです。「生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり」と言う是がね。ですから人間の本当の言わば幸せ真実の幸せ、ね。
だからそれこそ宗教界だけではなくて、沢山の人が人間の本当の真実とはというので、例えば道徳的な生き方、ね、修養の生き方身を修めるという生き方。又は仏様神様に縋っての生き方。または無神論、神様仏様はない、とにかく人間の矢張り、才覚、知恵、力で人間の幸せは自分で築いて行くもんだというふうにです、様々な事がとりあげられた訳ですね、人間の世の中が始まって以来、その事には皆が一生懸命になった。
そして本当の幸せとはと言う事をとうとう分からんなりに、謎のまま残っておった訳なんです。その謎をですね、見事に教祖様はご自身の、そのう体験それはどこから出発しておるかというと、天地の親神様が肥灰さしとめるからそのぶんに承知してくれから始まっておるです。そして最後にですね、「神も助かり氏子も立ち行くというですね、信心共栄というか、神も助かり氏子も立ち行く、道の顕現ということになって、ね。
天地この立教神伝の最後のところに、氏子あっての神、神あっての氏子、末々親にかかり子にかかりあいよかけよでたちゆく」と言う様な素晴らしい所にまで高めておられるのです、人間の幸せをもう神の幸せとひとつにしておられる。そこに金光教の信心の独壇場があるんだと、ね。けれども、ね、やはり始まっておるのは、「この幣きりさかいに肥灰さしとめるから、そのぶんに承知してくれ」という神頼みをです、はい承知つかまりましたと受けておられるところから始まっておるということなんです。
そして神も助かり氏子も立ち行くと言う様な、いわゆる神、人、共に真実の幸せを謳歌していけれるという道が開けてきた。人間の道では所謂家繁盛子孫繁盛と言う事になって、祝いめでたの若松様よと言う様な道が立った。しかもそれは子孫にまでも伝えれる道であると言う事を教祖様ご自身が確証されて、ね、確認して確証されたわけなんです。ところがなら現代になった時です。
それは金光大神がいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくのぞとというその教典、ね、神誡神訓それから御理解と言う様なものが、あの段々段々ですね、是を実証する人がなくなって来たですね、実際、からなく成って来た、あまりにも簡潔であるためにですね。言わば言うならこの教典は謎の様なものです、謎の問題の様なもんです、ですから是はね。私共が現代にアレンジするというかね。現代その時その時代にですね。
のものがこの謎の元をです解いて行かなければそのおかげを実証していく事は出来んのです。所がそれは実に難しい謎を解いていくと言う事は。それこそお医者さんが薬での是でさぐり入れて薬飲ませる様な事であって、こうだあぁだと少し本当な事をもう本当だと思い込んで、それを人に教えておると言った様な事に成り兼ない所をです、合楽では私の信心体験と同時に神様からお知らせを下さって、その御教えを解明していきよると言う所に、合楽の御理解の素晴らしさがあるっちゅう事。
しかもなら、私がそれを実証して心まで出していきよると言う事です。だからもう本当にそれを受けておる合楽の皆さんはそう言うひとつの自覚に立たなきゃいけん。謎解明の言わば実証者にならなきゃいけないと言う事なんです、ね。どうしてもお互いの信心というのがね、ただ人間だけが幸せになる道とか、幸福になる道とかというのが、あのう他の宗教でも解きましたね。
けれどもその、神も助かり氏子も立ち行くと言う様な事になっていなかった事。教祖様はそう言う所をね、その分かっておいでられた訳なんですよね。今日まだ随分色々他の事も、だから今日の御理解を収録しておる人達、朝の御理解をね、収録しておる人達の又、見せて貰うと又、もっと良いお知らせの所が、もっとまあ表現でお話しとった様に思うんですけれどね。大体そう言う様な、朝の御理解でしたね。
どうぞ。